
この前、実家に帰った日、ばあちゃんは冷房が聞いた部屋で昼寝をしてたんだけど、友達のAさんが土間に座ってアイスを食べてた。
用があるから昼寝から起きるまで待ってると言うけど、家族からしたら、「あ、そう」とも言えず、相手をしなくちゃいけない感じになり、話をしていた。
でも母が来たのでわたしはするりと抜けて、お相手役を母に任せてしまった。
母は30分くらいして家に帰ってきたけど、「Aさんなかなか帰らなくてさぁ」と、ちょっと疲れていた。結局ばあちゃんはまだ起きなかったので、諦めて帰ったらしい。
新聞屋のおばさんも、なかなか帰らない人で有名だけど、ばあちゃんはいくらでも話し相手になる。(そして帰ったら早く帰ればいいのに、とつぶやく)
そんなんで、田舎はコミュニティが狭いので、みんな表面では仲良くみせておいて(そうじゃなきゃ生きづらい)本当は好き嫌い、性格が合わないなどはいろいろある。
わたしは小さい頃、みんな仲良しでみんな楽しくやっていると思っていたけど、
中学生くらいから、本当は…を知る。
大好きな近所のおばちゃんは、実はじいちゃんの土地に黙ってゴミを捨てているとか。土地を自分のものにするために計画を立ててやっているとか。ばあちゃんの畑から野菜を遠慮なしにたくさんもらって帰ってしまうとか。人が見ている時だけ掃き掃除をするとか。
私はおばちゃんを嫌いになって、口をきかなくなった。
今は好き。わたしの離婚の相談を自分のことのように親身になって一緒に考えてくれた。客観的にみた私を知ってて時には泣きながらアドバイスしてくれた。とっても感謝している。私が生きた34年の生活をほぼ全部知ってる人。
母は、私が生まれる前から付き合いがあるので、多分40年近く関わっている。その中で、いいことも悪いこともたくさん覚えているんだろうと思う。
好きとか嫌いとか、合うとか合わないとかの言葉には当てはまらない、そんな次元ではない、長くて大切な付き合い。一緒の地域で暮らす仲間…
それで、今回のテーマ
わたしは何がひっかかってるかと言うと…
友達などの人に会った後について、なの。
「はやく帰ってくれればいいのに、ずっといてさ」
「あの人の似た豆は甘すぎるよな」
昔から聞いてる帰った後の本音の言葉
そんな、(話してる本人たちは半分冗談のような)その人が帰った後の本音がこわいのだ。
だから心配してしまう。
誰かと会った後は、楽しかった〜と安心できるのはごくたまにしかなくて、嫌な思いさせてないかな?疲れさせてないかな?余計な一言言って傷つけたりしてないかな?本当は早く帰りたかったかな?とか自分の行動チェックがはじまります。
そうなると、楽しかったはずの時間も、どこか置き去りにしたまま、不安になって、相手を気遣うような、ご機嫌うかがいのラインとかしてしまう。
ラインの返事が来ても、その言葉を信じられないこととかあって、はぁ(ため息)となったりして。
めんどくさいし自分で絡まってる感じ。
これをもっとシンプルにしたいなぁと思う。
幼少期に傷ついた自分、自分の理想通りではなかった現実と理想のギャップの悲しみが、今もついているんだなあと思う。
言葉と心は一致しているとは限らないし、
本音と建前、というのはみんな使う。
わたしは今日うちにきた友達の表情をよくみた。嬉しそうかな、とか…この話は興味あるかな、とか。
でもそれを読み取るのも当たりはずれは当然にあって、嫌そうな顔してても、本当は考えてるだけかもしれないし、その逆もあるし、心を許してリラックスして、素でいてくれて正直な反応をしているのかもしれない。
表情をつくる、つくらない
本音を言う、言わない
人間の心が見えないのはいいのかわるいのか…どちらとも言えない。
人と人の相性はみんなあり、
友達だけど良くない人もいるし、
全員が100%すごく話しやすいわけではない。
私自身が、そんなもやもやにとらわれて、自分は楽しかった一瞬一瞬を無駄にしちゃうのが寂しい。
『自分だけ楽しかった』は自己中で身勝手で醜い勘違い野郎だと思う。(いいすぎ?)
やっぱり、無駄が嫌いなんだ。
もう少し考えてすっきりさせて、
無駄じゃなくしたいし、改善して余計な考え癖をとっぱらって、楽になりたい。
いい意味での諦めと線引きが必要な気がした。