
相手が言ってほしい言葉を汲み取って、言ってあげることは、優しさじゃない。
言ってあげる、この表現にちょっと上から目線のような感じがある。
相手が言ってほしい言葉を汲み取って、(いろいろ想像して)相手の力になるような言葉を言うことは、優しさだ。
結局、相手を変えることはできない。変えてあげたくても。
今はきつい言葉を言った方が、きっとためになる!と信じて言って、嫌われちゃうこともあるよね。それはそれで、嫌われ役でもいいのかなと思うんだけど。
きつい言葉も、優しい言葉も、相手によって、ためになったり…ならなかったり…
人によって、厳しいこと言われた方が、はっとして力が出る場合もある。(でも実は傷ついてるのかな)
母は話の聞き上手だ。だから友達も、母と話すと癒されるみたい。
癒される存在、それが1番いいのかもしれない。
わたしは大切な存在であればあるほど、踏み込んでしまう。踏み込みすぎて、一緒に本気になってしまう。
相手と肩を組んで、光の方へ光の方へと、ずんずん歩きはじめてしまう。(本人はまだ歩きたくなくても)
それは、わかる人にわかればいいと、思っていた。そして、私がそこまで踏み込んでしまう友達は、きっとわかってくれるって…思っちゃうんだ。
しかしそれはとても自己中すぎた。
当たり障りないこと言って、それで?何が変わるの?何が変えられるの?
そんな、余計なお世話なのだ。
もう振り切って、それでもつながってくれている友達が本物。 一度離れたって、戻ってきてくれる友達と付き合えばいい。
だなんて、、、、崖から落とすテストなんかして、わたしはわざわざ何をしているんだろう?本物の友達を見つけようとしているのか?
小さい頃からのわたしを知っている友達は、私を優しすぎて明るい、いーこだと思ってる。損するくらい、いーこ。
今は、棘がたくさん出てきた自分に進化してると知らずに関わると、びっくりすると思う。
棘があった方が、生きやすい。そして、本当は棘を持っていたのかも。出さなかった。出さない代わりに泣いた。
どっちにしろ、その棘は、わたしを生きやすくもするし、自分を傷つけてもいると最近わかった。
相手のために、自分が犠牲になる、っていう意味では、昔の優しい私も、今の棘を持つ私も、一緒なのかもしれない。
相手も、自分も、優しくよくなり心地よい言葉を選べばいい。
そのためには、自分の考えを一旦消すこと。
共感はできなくとも、寄り添い話を聞くこと、想像をふくらませて、思いやることが大事なんじゃないか。
相手の話に、私の考えや意志は、どーでもいい。そうなんだ、そうなんだ、と受け止めればいい。
いや違う、とか、こう思うとか、相手の話に自分の体験をごっちゃにするからわけがわからなくなるんだ。
相手にいいアドバイスを、とか、
私に聞いてくれたからには、いい答えを、とか、
わたしは、自己が強すぎるの。
ただ、聞いて、そうなの、そうなの、って、それでいいのよ、と母は言う。
それで、肝心な時にちょっと待ってって、手をとる。それが大事、と。
自分の考えは、聞かれたら言えばいい。聞かれてないのに言う必要ないのよ。
良くも悪くも
相手の人生は、相手が決めることなんだから、
他人ができることなんて、ない、と認めて、
ただ、話を聞くことはできる。と思いやることが大事なんだと。
母はすごいなーと思った。
(わたしには本気も冗談もきっついこと言うけどね笑)